毎日を明日なきものとして生きる

外遊びの楽しさを探すブログ

雷魚と言う魚

前回のつづきです。

 

車を使って大きく移動する。

飲み物を補充して、水路沿いに車を停めた。

2人ほどか釣り人とすれ違ったが、持っていたタックルから

どうやら違う魚種狙いの人のようだった。

水路沿いの土手の上から魚影を探して歩く。

水生植物が少なく、何尾か雷魚を見つけられたのだが、

相手に先に気づかれたり、目につきやすいポイントなので

叩かれているのか、全く無反応の魚もいた。

フロッグが着水するやいなや、緩慢な動きで面倒くさそうに

対岸の岩陰に身を隠していった。

 

土手沿いを歩き、その先にある池に移動した。

こちらもほぼオープンで、対岸の葦際を狙うしかない。

朝のポイントより雰囲気はあまり感じられなかったが、

集中力を切らすことなく攻め続けられたのは、

朝の友人のバラシがあったからに違いない。

しかし、魚からの反応が返ってくることは無く、

一度昼食を挟んで、再び朝の池に戻ることにした。

 

遠征している事もあり、時間は限られていた。

コンビニで昼食を買って、池のほとりのベンチで弁当を開く。

もう何年前になるだろう、どこかの湖のほとりのあずまやで

こうやって同じ友人と釣りの途中に昼食を食べた事を思い出した。

何年経ってもやる事は変わっていない、そんな事を確認できる

良い出来事だった。

朝も早かったし、昼寝をしたいところだったけど、

眠気を飲み込んで竿を担いで、再びポイントへ向かった。

 

日曜という事もあり、池のほとりに遊びに来た家族連れが多くいた。

遊具も何もない、遊歩道が池の周りを一周しているだけのところだったが、

自粛疲れなのか屋外で出来ることを探し、”密”にならない場所に、

癒しを求めてきたのだろう。

 

回り込んで朝の水路を重点的に探索することにした。

池の方には先行者の姿もあったし、釣り以外の人の往来もあったので、

それらを避けるのも目的ではあった。

朝見た水門周りを2人で眺めていると、いきなりそこそこのサイズの

魚が往来していた。

それは紛れもなく追い求めた雷魚の姿である。

しかし、やはり見えている魚はプレッシャーからなのか

フロッグを明らかに嫌がっていた。

いきなり魚影を確認できた事もあり、ラストスパートへの集中力も上がる。

眠気を吹っ飛ばすには十分すぎる出来事であった。

ここからは友人と上流と下流で二手に分かれて雷魚を探す。

自転車に乗った男の子達が、土手沿いを走っていた。

その手には虫取り網を持ち、自転車のカゴには虫かごが入っていた。

最近の子供は外で遊ばなくなったなんて言っていたが、

元気に自転車を走らせているその子たちを見て、

自然と自分の幼い頃と重ねていた。

昔はここも自然に囲まれ、魚も多く生息したのかもしれない。

僕の実家の方でもこんな環境がもっとあったような記憶はある。

しかし、その時はそこにある自然は当たり前で、

特別ありがたいと思う事もなかったし、近くに雷魚だっていたかもしれない。

その事に気づくことができなかったのは、とても残念でならないけど、

こんな年になってもそのありがたさに気づけたことは、

とても大きなことに思えるのである。

 

雷魚の釣りの環境で、僕がイメージする景色、

水生植物が生い茂り、そこを求めて集まる生物の活気が

静かにあふれだし、そこに燦々と日光が降り注ぐ。

いつしか魚を追い求めることより、そんな環境の中

竿を振ることが目的にすり替わっていた気がした。

例えそんな環境があったとしても、魚に合う事すら叶わず、

その環境と魚との出会いがリンクする事はかつてなかった。

そんな事をぼんやり考えながら、魚を探して歩を進めた。

 

水面を注視しながらふと対岸の水面を覆う木の下に、魚影を見つけた。

今までやっていたことが正解だったのかはわからないが、

今までやってきたように静かに間合を詰めていく。

魚の向きを確認しながら、フロッグの落とし場所を探して模索する。

覚悟を決めてオーバーハングした木を絡められる位置にフロッグが落ちた。

しばらく静止させたその時間が長く感じる。

汗ばむ手で竿のグリップをギュッと握りなおし、

リールでスラッグを調整して、いざアクションを入れる。

水面にフロッグの小さな波紋が広がると、スッと魚の頭が

フロッグの方に向いたように見えた。

再び静止させると魚の方もそのままフロッグを見たままの態勢を保っている。

いつも迷う、ここから動かすべきか、それとも止めておくべきか、

はたまたシェイクで誘うのか。

結局正解は魚が釣れた時にでるものであって、こんな魚と対峙するチャンスに

今まで恵まれなかった事で、余計な迷いに包まれていた。

意を決し、弱々しいアクションを入れる、次の瞬間ゆっくり

フロッグに魚が近づいてきた。

来る!

何の根拠もなかったが、その魚が近づく速度でそんなことを直感した。

雷魚がバイトする瞬間を初めて目視する。

何の躊躇もなく、水面付近ではじけ飛ぶ飛沫を確認し、

力いっぱい竿を立てた。

その重みが竿全体に乗ると、続けざまに大きなうねりのような

ヘッドシェイク、本当にフッキングしているのか?と言う不安感、

土手の傾斜も加勢して引っ張り込まれるような感覚を伴う。

リールを巻いた次の瞬間、ギンギンに引っ張られた10号のラインは、

力なく垂れ下がり、ふわりと水面の投げだされた。

一瞬頭の中が真っ白で、目の前で起きた出来事を

理解できないでただ立っていた。

長年のこの呪縛から解放される、そんなことが魚とのやり取りの間

脳裏を過った事を思い出す。

自分の詰めの甘さを痛感することとなった。

 

しばらくの放心状態を経て、友人のところまで来た土手の道を戻る。

友人にその出来事を伝えると、その悔しさを共感してくれた。

こんな時、友人と一緒に釣りをすることの良さを

改めて感じる事が出来る。

残念ながら2人とも仲良く1バラシずつで、

痛み分けと言う形でこの日の釣行は終了した。

帰りの車の中、どうすれば釣れたか?と、次はどこに行くか?

と言う話で盛り上がったことは、解り切ったことであった。

 

何年かぶりの雷魚釣行、今回もまた黒星をふやしただけであったが、

憧れの魚は、憧れのままが良いような気持ちも少なからずある。

格好つけるわけではないけど、ここまできたら釣れてしまった後、

どういう心境になるのかが心配になることもある、複雑な心境なのだ。

いずれにせよ、次への期待は膨らむのである。