毎日を明日なきものとして生きる

外遊びの楽しさを探すブログ

毎日を明日なきものとして生きる

このブログを始めてから、8月で丸4年。

複雑な切っ掛けで始めたこのブログではあったが、

なんとかここまでやってこれたという感じだ。

そんな今回はとある人からいただいた、

当ブログのタイトルにもなっているありがたい言葉、

『毎日を明日なきものとして生きる』より、

たまにはちょっと深い話をしてみようと思う。

 

まず、このブログのタイトルである、『毎日を明日なきものとして生きる』は

どうやってつけられたかから始めよう。

この言葉から切迫したような、追い詰められたような、

そんな印象を受ける人もいるかもしれない。

しかし、本当の意味はいわゆる『一期一会』を

飾らずに現した表現だとのことです。

人生で一度きりの出来事、それはいつどこで訪れるか

誰も知る由もなく、その一瞬、一瞬を大事にすると言う意味がある。

しかし、一期一会と言う熟語は、あまりにも表現が綺麗であって、

本来日常我々が生活する中で、いつもそんな風に綺麗には

残念ながら全てが行かないことの方が多く、もっと泥臭く、

生活じみた事の方が多い。

もし、自分に明日が無かったとする。

そうしたら、小さなことにでも何かを見つけられるのではないか。

そんなところから、この『毎日を明日なきものとして生きる』が

気に入っているとこの言葉を頂いた方は、そう言っていた。

 

妙な流行病、未曾有の災害、ネット社会の闇、

妬みや憎しみ、そしてそんな毎日に落胆し、絶望する事も

生きていく中であざなえる縄の如く毎日訪れて来る。

そんな中でも、僕たちは生きていかねばならないと言う、

無機質な、いわば責任感のようなものに苛まれて生きていないだろうか。

この絶えず『繋がり」続けるこの世の中にあって、

尚、孤独を感じる事はないだろうか。

たまに、「明日が来なければ幸せなのかなあ」と言う時も

あったりするのも事実である。

しかし、そんな時でもどんな人でも平等に明日はやってくる。

突然命を奪われったり、輝ける栄光を前に病に伏せたり、

不平等だと思う出来事だって山のようにあるだろが、

そんな中でも明日が ”やってきて” しまう事もあるのだ。

そんな時、自分に明日が無ければどうするだろうと考える。

自分に後ろめたい事はないか、誰か大切な人に優しくしてあげられているか、

やり残したことはないか、今の自分に出来ることはないか、

また今度と言って遠回しに逃げていることはないか、

トイレの蓋は閉めているのか、靴下は洗濯カゴにいれているのか、

後悔は少しでもないだろうか。

『毎日を明日なきものとして生きる』

それは、生きるためのヒントになると、

僕は信じてこのブログを続けたいと思う。

 

なんだか節目に、壮大なテーマを綴ってしまったけど、

このブログのタイトルは、毎日を楽しく、そして、

人生に色彩を与える、大げさだけど、そんな言葉であると思う。

 

何の足しにもならないと思いますが、

こんな毎日を何にも考えなく生きているヤツも、

世の中にはいるって事を、少しでも知って欲しいと思う次第であります。

 

最後に、4年間見続けてくれている皆様、

さらにはこのブログの前身を含めて12年間、

見続けている方々に、ありがとうとこの場を借りて伝えたいと思います。

 

そんな壮大な意味のある当ブログのタイトルですが、

これからも些細な日常と、ちょっとした刺激を、

書き綴って行きたいと思います。

これからもよろしくお願いします。