僕はずっと、好きなことに向けられる労力は辛くないと思っていた。
だから、辛いと思うことは好きなことじゃないのだと思っていた。
でも、好きなことが嫌いになることもあるし、好きなことをしたくないと思うことや、好きなのに気持ちが前を向かないこともあるのだと、この年になって初めて知った。
少し前ならそんな事考えられなかった。そんなことあり得ない、それって嫌いになったってことでしょ?なんて思っていた。
未だに自分の中で、消化しきれていない部分、抗うって言うのか、そういう部分はあるのだけど、ゆっくり、ゆっくりそれに飲み込まれていくのを実感することはある。昔はこんな事ほざいているオヤジは相手にもしなかっただろう。今でもそんなヤツにはなりたくないが、どんどん近づいて行っている気がする。
弱音や愚痴は嫌いだ。自分にとって何の足しにもならないのは理解している。
例えばそんな時、文章にしてゲロってしまえば、周りの連中には迷惑がかからないだろうと文章にしてみたものの、なんとも消化不良な感じの嫌悪感だけが残された。
結局、どこで何をしようとも、この消化不良は解消されることはないのかもしれない。
こんな時、他の人はどうしているのだろう。
親しい友人や同僚、家族に話を聞いてもらったり、信頼できる先輩や有識者にアドバイスをもらったりというのはよく聞く話だ。しかし、僕は自分の事を話すことがそもそも苦手である。相手から質問されたり、話の流れで関連のあるエピソードを話すことはできるのだが、自分から自らのことを打ち明けるのが苦手で、特にネガティブな内容のことを相手に打ち上げるのは気が引けて話せない。人の話を聞くのは得意で、僕に相談をしてくれる人はありがたいことにいてくれるし、家族は僕が聞かなくても、日常のことを話してくれるのだけど、あらたまって自分の悩みであったり、心配事を話せない。決して相手を信用していないわけではないのだけど、相手を信用すればするほどに、僕ごときの悩みの話で相手の時間を奪うことに引け目を感じてしまうのかもしれない。
逆にいい話であっても、自慢話しに聞こえてしまいそうであまりすることはない。全くしないわけではなく、その話のスタートが話の流れのなかで、自慢話にならないように、あくまでエピソードトークの流れの中では、こんなこともあったという話をすることはある。それはあくまでも相手にとってプラスになる時に使うことで、自分の優越のためにすることはない。
こんな生きづらい性格が災いすることもたくさんある。特に最近はプラスの要素だけで自分を動かすには正直しんどいこともある。認めたくはないけど、それは年齢的な要素もあるのではと認めざる負えないのかも。
4月は出会いと別れの季節、生きづらい世の中で、生きづらい道を歩んでいるけど、それもこれもひっくるめて、また頑張っていこと思います。