毎日を明日なきものとして生きる

外遊びの楽しさを探すブログ

情報

メディアは戦争の事を取り上げる毎日。その悲惨な情景や避難者の悲痛な訴え、父親を残し避難をする子供たちをただ傍観するしかない自分に、何か異次元で起きていることのようで、なんともいたたまれない気持ちで毎日を過ごすようになった。

戦地の状況はタイムリーにSNSと言うツールで世界に発信され、どこにいてもその情報が飛び込んでくる。僕たちが学校で習った戦争との大きな違いで、過去の戦争にはなかった情報ツールである。古代の戦い、戦争でも『情報』と言うのは大きな武器となっていたように、ロシアとウクライナの戦いでもその情報は作戦の一部となっているようだ。昔なら隠ぺいや事実を曲げて伝えるなどの情報操作で敵を錯乱させる作戦もあったように、ウクライナは国内の状況、自分たちの置かれた現状を、世界に向け発信することで、世界の多くの人と心を繋ごうとしているように思える。一方ロシアは、ネットや情報メディアに規制をかけて、情報を操作で、国内の心をまとめようとしている。

もちろん、僕もネットのニュースなどで見たままのことで、自分が感じていることなのだが、これが本当の真実なのかという事には、いつも疑問が残る。

見方や考え方によったら全く別の事実になったり、違う解釈になったりという事は考えられなくもない。ミスリードを積極的に誘う情報だとしたら、悪者は英雄になりかねないという事だ。そして、傍観者がそのミスリードにより、小さな声を重ね合わせて世論となり、国家をも動かす事になれば、そのミスリード、即ち「嘘」は真実になってしまうのではないかと、こんなことも考えてしまうのだ。

一番の悪は、正義だ。そんな言葉を聞いたことがある。

いくら正義であっても、それが歪んでいればそれは限りなく悪になってしまう。大義があったとしても、その事項が歪んでいればそれは単なる欲求に過ぎない。正義すら定義のない大儀なのだ。それを判断するのは当事者より、関係性の薄い第三者の多数決によることが多い。それが民主主義の根底であり、その為に僕たちは事実を知り、正しい判断をしなければならないのだと思う。

フェイクニュースに見られるような情報操作、そのニュースを見た人が誤解をしたとしよう。その嘘は拡散され、本当は悪だったのに、英雄のように扱われてしまう。

例えば、映画などで最後まで悪役と思っていた人が、本当は自らを犠牲にしてみんなを助けようとしていて、いつも傍にいた優しい人が悪の首謀者だった、なんて映画やドラマなどでよくあるストーリーだけど、情報を巧みに操作すればそんな可能性もゼロではないような気がするのである。長い歴史の中では軍事衝突での力の差だけではなく、そう言った情報操作で歴史がひっくり返った事も実際にある。情報の伝達速度が昔と比べ物にならないほどの速度であれば、それもまた大きな武器になりえるだろう。

ただ、多くの罪なき人が犠牲になり、戦争と言う繰り返してはならない事が現実として起こっている。いつも犠牲になるのは、多くの一般人。少数の自己中心的な思想を抱いている者の踏み台となっているのではないだろうか。

 

僕の考え方も凄く偏っているし、うがった見方をしていると思う。しかし、垂れ流される情報をただうのみにはできない。

ただ、争いごとなんて何の利益ももたらさない。競うことで共存できる平和な世界になる事を願っています。