毎日を明日なきものとして生きる

外遊びの楽しさを探すブログ

2022年を振り返る記事

僕の記憶が正しければ、この時期にこのタイトルの記事を書き始めて13年ぐらいになるだろうか。最初は釣果の整理として書いていたつもりが、その年の思い出を綴るようになっていった。その間楽しいこと辛いこと、いろんな出来事があったのだけど、その時時で乗り越えて、またこうやって1年を振り返ることに感謝している。特にここ数年、出かける機会が少なくなり、その分思い出の数も少なくなっている。ただ、今年はそんな状況に抗うように思い出を作ろうとした年だった。思い出とは作るものではなく、与えられるものだとだと思っていた。「与えられる」と言うと、少々誤解を招きかねないが、偶発的なめぐり逢いこそ、思い出につながると信じていた。ただ、ここ数年はその機会こそが減り、その分母の中でそう言った思い出を作ることは、今までよりも難しいことになる。ただ、今年は萎えた気持ちを奮い立たせるように、思い出を作りに出かけることをした都市でもあったように思えるのである。

 

春、昨年末から山間部は大雪となり、春先の釣行の頃もまだ河原は雪に覆われていた。決まってこの時期、仕事を放棄して馴染みの友人と釣りをする。

釣りは友人に会う口実と言ってきたけど、今年は例年に輪をかけてその気持が大きかった。恥ずかしくてそんな事を言えないからこそ、そこを繋げるのに「釣り」は必要不可欠なのである。

結果を言えば、完全ボーズで友人と河原で、友人が先日に作った豚バラの燻製を焼いて食うだけの戯れに終わる。それが強がりではなく、ここ数年感じなかった、なんとも心地よい時間でした。

 

春本番、新しい竿を携えて、久しぶりの川へ向かった。

朝のガイドが凍るほどの寒さと雨。久しぶりに修行のような釣りではあったけど、それもまた思い出作りのスパイスとなる。

予想以上の水量に加え、使い慣れないタックル、根掛かりしたルアーを救出するのにずぶ濡れになったことや、ウェーダーの浸水もあり、思ったような釣りはできなかったけど、それでも来て良かったと思える釣りができたと思う。

 

季節は夏になり、夏の渓魚と戯れる時期が来た。

年を負うごとに夏の渓は、水遊びの要素が大きく、夕立の時間を見計らいずぶ濡れになりながら釣りをしてみたり、無意味に濡れたがったり。これが童心を思い出すってことなのかと思ったりする。

 

ただ、サイズはと言うと期待できないのもこの季節ならでは。しかし、元気いっぱい迷うことなくルアーを捕食しようとアタックしてくる魚には、サイズなどという概念は無用なのかもしれないと思うほどの楽しさがそこにはある。

海では久しぶりのキジハタを釣った。

家族連れで賑わう防波堤。釣れない時間帯に、家族連れの中の少年が釣りに飽きそうな時に、再び活気を与えるのに十分な魚が連れた。声を掛けられることはなかったけど、釣り方や連れた魚種は少年にはやる気のもとになったに違いない。

そんな休日の防波堤。釣れた魚はこれだけだったけど、こんな釣りを楽しめるのは、ここに足を運んだ者のみだ。

秋に入り、昨年ぶりの友人と海へ向かった。

狙いはサーフからの青物。時期的には少し遅れてはいたものの、まだ少しは釣れているようだと、友人からの誘いがあった。久しぶりに寝ないで海を目指し、朝マヅメまで漁港でライトな釣り。僕にはカマスが釣れ、友人にも数匹。朝方の寒さにギブアップするまで適度に楽しみ、いざ本番のサーフへと向かう。

 

日の出間近の海。白み始める空には月が浮かんでいた。ちょうど大潮明け、波の具合も悪くないように思うが、ズラッと並んだ浜辺には竿を曲げるものはまだいない。時期に朝焼けに海が照らされ、赤く染まっていく空を眠気眼で眺めながらフルキャストを重ねていく。やがて朝日の熱で、冷えた体が徐々に暖かくなる時間には、クタクタになっていた。残念ながら二人共魚を手にすることは叶わなかったが、それでも久しぶりに感じる疲労感には特別なものがあった。この後、来年また来ようと友人と約束を交わし、その反省点はタックルに向けられる事となった。

今年は昨年より釣りに行く機会が増え、その分魚と会えた1年になった。

来年どうなるかわからないが、外に出られる機会は増える、いや、増やしていきたいと思えるような1年でした。