毎日を明日なきものとして生きる

外遊びの楽しさを探すブログ

災害に見る支援の形

令和6年能登半島地震

平穏で穏やであるはずであった日常を、一瞬にして壊された。

思い出したのは東日本大震災新潟県中越地震阪神淡路大震災

緊急地震速報に呼吸は早くなり、頭は真っ白になった。

幸い僕の地域は少しの揺れで収まったものの、僕に繋がりが強い新潟、富山、長野は強い揺れがあったとのことだ。

特に震源の石川県は地震発生が夕刻だったことから、被害の全貌は翌日になって明らかになり、それは阪神淡路大震災の記憶と重なった。

亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

それと共に僕ができることを考えていました。

 

ネット、SNSの普及と共に、情報の拡散は著しく、そのスピードは東日本大震災の時を遥かに凌ぐと僕は思っていた。それらは通信の進化はもとより、過去の経験が活かされていた。例えば安否の確認、被災地からのダイレクトな声。状況把握と共にどんな支援が必要なのかも情報として収集でき、非被災者はその声に沿った支援ができるようになったのは大きなことだと思う。実際には今日現在も隅々まで支援が十分では無いにせよ、スピード感は格段に上がっている実感がある。これら全ては過去の経験がそうさせているのだろう。

 

今、僕には何ができるだろう。

東日本大震災の時は、毎日そればかりを考えていたような記憶がある。

しかし、自分のできることなど殆どないことに気づき、自分の無力さに打ちひしがれる毎日を送っていた。そんな気持ちになることは意味のないことだと気づいたのは、報道で災害のことを扱う時間が少なくなってきてからのだったように思う。あの当時、ネットは色んな憶測や、罵詈雑言に溢れていた。憶測で人を傷つけて、当事者でない人が当事者の代弁をするかのように雄弁に語っていた。僕も少しでも情報を収集できればと、ネットを毎日見ていたが、やがて自分が傍観者になって、何もしていないことに気づいた。

 

今、自分にできることをやろう。

 

災害ボランティアなんて僕には難しい。家族も居るし、仕事だってある。こんな僕でも仕事に穴を開けてしまっては、他の多くの人に迷惑が掛かることは明白。そうなれば被災者の気持ちを汲んで自粛すべきか。否、そうでも無い気がする。例えば、旅行に行くことを自粛するとしよう。しかし、旅行先に予定していた地の収益はなくなる。売上がなくなれば、その産業を支えている人たちに影響があり、国民を支えている税金にまで影響を及ぼす可能性も秘めている。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、それが現実であると思うのである。

では、今僕たちができることとはなんだろう。

それは、それぞれ違うのではないだろうか。

現地で直接支援するだけが支援ではないと思う。

例えば支援金はネットでできる。ネットで買い物する感覚で寄付ができる。

金額は関係ないと思う、要はその気持ちが大切なのだ。

最近、物価の高騰で自分の生活もままならない、なんて人も多いだろう。自分がやりたいことを我慢し、生活水準を維持するのも困難だと言う人も居るだろう。そんな人は無理に支援を考えなくて良いと思う。それは今の自分にできることを、できる範囲でやるのが支援の本質だと僕は考えている。しかし、相手の為を思い、少しの我慢と引き換えに、何かを何かの形で助けてあげられる人こそ、僕は最高にかっこいい人だと思います。半分この精神、人に分け与えることができる人こそ、本当の優しさを持った人ではないでしょうか。

寄付は難しくても、被災地の産地の食料や、産物、商品を購入するのも、支援の1つだと思います。

 

支援は一過性のものではなく、被災者が日常を取り戻すまで、継続していくべきです。長い目で見た支援の形を皆さんも考えてみてはいかがでしょうか。

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